感性を大切にすること
デパートの催事場で、展示が行われている時がある。
歴史上の人物に縁があるものや、絵や写真がかざられている。
その空間が好きだ。
歴史に関係するものであれば、いつ使われたものか、歴史にどう関係するのかじっくりと説明書きを読みながらまわる。
写真や絵であれば、1つ1つを噛みしめるように見てまわる。
そこに言葉はいらない。
自分の感性に訴えかけた物が素晴らしい作品と思っている。
以前、貼絵の作品を見に行ったことがあった。
前方を歩いて作品を見ている女性が、幼い子供に一生懸命作品の説明をしていた。
幼い子供は分かったような、分かっていないような表情だったことを覚えている。
誰がどう言おうと関係ない。
自分が美しいと感じるもの、見ていて心躍るもの、それが本当に美しい芸術作品ではないのだろうか。
だからこそあの空間には、何時間いても飽きない。
それどころか、過ごすほどに、子供の時のゆりかごのような安心感を覚える。
それを感じるだけで、人生は驚くほど豊かになる。
いろいろと体験することは貴重だ。
一見、無駄に思える体験でも、実は意外と行動のヒントになることもある。
しかし、大抵の人が、無駄な体験を記憶から消したり、否定し続けるために、次の材料にもならないのが通常である。
人は失敗を認めたくない動物である。
が、逆に失敗から学べることも出来る、唯一の動物であるために、人としてのプライドがあるのではないかと思います。
自分らしさとは
自分らしさとは何なのか。
ものをつくる職業を志してからよく考える。
主に作品の制作において、自分らしさを出すべきかどうかという議論はクリエイターではない人達でも聞いたことがあるだろう。
一般的な結論みたいなものはあって、「自分らしさを出そうとしなくても自分らしさは出る」というものだ。
これの前提として、作品制作は自分のつくりたいようにはつくることができないというのが、まず初めにあるだろう。
そして、自分のつくりたいようにつくれないということは、誰かの意向を汲んで制作を行うということであり、そうすると自分がつくる意味はあるのかという考えになり、本当にそれでいいのかと悩むようになるのだ。
これらはものづくりを仕事にしてきた先輩達が既に通過してきたポイントで、そんなに悩むようなことではないみたいだ。
「自分らしさ」や「自分の味」というものは出そうと思って出るものではないのだ。
ただつくるだけでも、人それぞれに違いがあり、出来上がったものに1つとして同じものはない。
完成したその作品は、自分がつくったからこその特徴が出るし、たくさんつくっていけばその中に、「自分」特有の何かが感じ取れるだろう。
これを理解してから、とても気持ちが楽になった。
いわゆる性格としての自分らしさも同じようなものだ。
自分を偽ったり、目指すべき自分をつくりあげたりすることも時には大事だが、結局は今まで生きてきた人生や大事にしてきた考え方というのが自然と性格となって現れて、他人からは「あなたらしさ」として感じられる。
作品づくりも自分の生きてきた今までの行動や信念が形となって現れるのだ。
「感性」とはこれのことを言うのだろう。